慶應義塾女子高校は国語で品詞分解を毎年1問必ず出題しています。
このように出題傾向が安定していると、過去問での対策が有効なので、慶女を第一志望にしている子が受かりやすくなり、高校側としてもメリットがあるように思います。
私は以前の記事にも書いたとおり、基本的に慶應女子高の入試問題はとても好きなのですが、実は、唯一この品詞分解に関しては気になる部分があります。
東大言語学科でまじめに言語について学んできた私が思う、品詞分解を高校入試で問うことの微妙な点について、この記事では紹介していきます。
かなりマニアックな内容になっており、受験生が読むには難しいと思います。国語の先生には参考になることがあるかもしれません。そんな感じですが、モノ好きの方にはお付き合いいただけると幸いです。
品詞分解を突き詰めたときに生じる微妙な問題
ちょっと困る問題の具体例
早速、具体例を見てみましょう。
慶應女子高校の品詞分解の出題一覧
2008年 確立しなければならない
2009年 語られているらしかった
2010年 実は正しいとは言えません
2011年 しかもいったんきたら
2012年 必死で横走りをしているにすぎない
2013年 けれどもしっかり目をつぶったまま
2014年 重要になってくるはずだ
2015年 傷つけられたような気持になるのか
2016年 無縁な世界といえるでしょう
2017年 なってないだけだ
2018年 ひねり出したのかを知りたくなる
2019年 帰りたいという願いをずっといだきながら
2020年 うまく使いこなせなくなってしまう
2021年 なかなか優雅ではないか
2022年 すばらしい工夫なわけです
2023年 なるべく外出させないようにした
2024年 見てくれなければ
2025年 直に彼に会った時
困るのは、ずばり2013年と2014年です。
- 2013年の「まま」は、名詞なのでしょうか、助詞なのでしょうか。
- 2014年の「はず」は、名詞なのでしょうか、助詞なのでしょうか。
「まま」「はず」は形式名詞なのか、助詞なのか
2013年の「まま」は、「目をつぶったまま」という表現の中で問われていますが、この「〜たまま」の形のように、文と文をつなぐ位置で用いられている場合には接続助詞と考える人が多いようです。
デジタル大辞泉では、
まま
[接助]《名詞「まま(儘)」から》用言または助動詞の連体形に接続する。
1 (多く完了の助動詞「た」に続けて「…たまま」の形で用いる)ある動作や状態が保たれた状況で、別の動作がなされる意を表す。「物音ひとつしない—、時は過ぎた」「テレビをつけた—、眠ってしまった」
一方、同じくデジタル大辞泉ですが、「そのまま」のように、文と文をつなぐ位置ではない場合には名詞(形式名詞)とされています。(形式名詞は、本来の具体的な意味が弱まって機能的に用いられる名詞で、ほかに「こと、もの、とき、ところ、うち、ため、おかげ、せい」などがあるとされています。2014年に出題された「はず」も、形式名詞とする人が多いようです。)
まま【×儘/▽随/▽任】
《「まにま」の音変化》多く連体修飾語を受けて形式名詞的に用いられる。
1 その状態に変化のないこと。それと同じ状態。「昔の—」「現状の—」「立った—の姿勢」
2 (多く「ままになる」の形で用いる)思い通りの状態。自由。「意の—になる」「こう物価高だと買物も—にならない」
名詞と考える根拠の1つとしては、以下のように「主語になれるから」というものが考えられるでしょう。
「そのままがいい」「熱いままがいい」
「そんなはずがない」「熱いはずがない」
しかし、この基準は、実は結構微妙な判断を含みます。なぜなら、国語の教科書で副助詞に分類されているもので、主語になれる(ように見える)単語がたくさん存在するからです。
副助詞
は・も・こそ・まで・しか・だけ・ほど・など・だって・でも・さえ・ばかり・くらい(ぐらい)・ずつ・か・とか・なり (光村図書の2年国語教科書より)
このうち、「こそ・まで・だけ・ほど・など・ばかり・くらい・ずつ・とか・なり」は、後ろに「が」を伴うことができます。いくつか例を挙げます。
<副助詞が主語になるように見える例>
それこそが大事なのだ。
君だけが教えてくれた。熱いだけがすべてではない。
2年ほどが経った。(熱いほど良い。)
君などは足元にも及ばない。
君ばかりが得をしている。
それなりが良い。貧しいなりがいいだろう。
そのくらいがいい。熱いくらいがいい。
熱いとかは大事なことではない。
このように「主語になれる」ように見える単語は、副助詞か名詞かが非常に分かりにくいです。これを見分ける基準としては、「自分自身が主語なのか、それともくっついている先の名詞が主語なのか」というものがあります。
上に挙げた例文のうち、太字にした文に注目すると、主語は「こそ」「だけ」「など」「ばかり」ではなくて、「君」「それ」の方であるという感覚があります。それゆえ、これらは名詞にニュアンスを添えているだけの副助詞である、と考えるわけです。(残りの例文に関しては、どちらが主語か判別が難しい気もします)
一方、
<形式名詞が主語になっている例>
「そのままがいい」「熱いままがいい」
「そんなはずがない」「熱いはずがない」
これらの文では、ついている単語が名詞ではないこともあり、「まま」「はず」自体が主語であるように感じられます。おそらくこの理由で、「まま」「はず」は形式名詞と考えられているのだと思います。
ただ、上の例文からあえて抜かしていた副助詞があります。「くらい」です。これはちょっと怪しい動きをします。
「そのくらいがいい」「熱いくらいがいい」
このように、「まま」「はず」の例文とそっくりそのまま入れ替えることができています。これはかなり、「くらい」自身が主語になっているように見えますよね。
にもかかわらず、なぜ「くらい」が教科書で副助詞扱いされているのかは非常に難しいところです。アクセントを観察すると、「くらい」の方が「はず」「まま」よりも名詞への融合度が高いので、そのせいかもしれません。
いずれにせよ、「主語になれるなら名詞」という判断基準は、よくよく見ていくと実は難しい例があるというのはお分かりいただけたかと思います。
なお、私が思う解答例では、2013年の「まま」は接続助詞、2014年の「はず」は名詞である、と付記しておきます。
ここまでは、実際の慶女の過去問に触れながら話を進めてきましたが、ここまで意図的にスルーしてきた内容があります。それは、デジタル大辞泉において「まま」の品詞が用法によって分かれていたという点です。ここは、学校の国語文法の定義に忠実に考えると、「本当にそれでいいの?」と思わないといけない部分なのです。以下、詳述します。
品詞は単語に対して定義されるのか、用法に対して定義されるのか
言語研究においては、基本的に品詞は単語(言語学では語と呼びます)ではなくて用法に対して定義されています(その方が適切な言語記述ができるからです)。たとえば、英語のfastという単語は、”fast runner”のように名詞を修飾する場合には形容詞、”He runs fast.”のように動詞を修飾する場合には副詞として扱われます。
先ほど見たデジタル大辞泉の例では、「まま」を用法によって接続助詞と名詞に分けており、デジタル大辞泉はこの立場をとっていることが分かります。
一方、(日本語は語形変化せずに品詞が交代する例が限られていることもあり)学校の国語文法において、品詞は「単語に対して定義されている」ということになっています。たとえば、私が持っている『シリウス発展編vol.1』には、
単語を言葉の性質や働きのうえから分類したものを品詞といいます。
と書かれています。(光村図書の教科書でも、品詞は単語に対して定義されていました。)
また、学校の国語文法で品詞が単語に対して定義されていることは、たとえば名詞であることを判別する条件が、「主語になれること」であることからも分かります。用法に対して品詞を定義する場合、「ある語が主語として用いられている場合、その語はそこで名詞として用いられている」という言い方になるはずです。
さて、学校の教科書にしたがって、「単語に対して品詞を定義する」ことを徹底した場合、「まま」という1単語に割り当てられる品詞は1つしかないことになります。その場合、2013年の「まま」の品詞は何が正解だったのでしょうか?
これを回避する技としては、「『まま』の2用法は別の単語である」と考えてしまう、というものがあります。しかし、このように考えるのであれば、「とき」や「ため」といったほかの形式名詞も、文と文をつなぐ場合(「あなたが来たとき、私は寝ていた」などの場合)には別単語で接続助詞と考えた方が良い可能性が出てくる(実際、これらの文を英訳すると接続詞が出てきます)など、他の場所で混乱が生じる可能性があります。
「単語に対して品詞を定義」しようとすると、困る例はほかにもあります。
たとえば、「当然」という単語を、中学生の文法問題でどのように処理するか見てみましょう。「当然の結果」において、「当然」は名詞として分析されると思います。一方、「当然行きません」の「当然」は副詞として分析されると思います。これらの「当然」は意味は同じと考えられますので、別の単語と考える根拠は乏しく、同じ単語の2つの用法と考えるべきです。同じ単語の2つの用法に対して、「こっちは名詞」「こっちは副詞」とするのでは、用法に対して品詞を定義していることになっており、品詞を単語に対して定義したのと矛盾してしまいます。
このように、品詞というものを「単語に対して定義している」と言いながら、それでは無理がある一部の例では「用法に対して定義する」ような運用がある(かも?)という状況であり、そのような微妙な問題は高校入試には出題しない方がいいのでは、と思うわけです。
ところで、「当然の結果」の「当然」は名詞としましたが、「当然」は主語になりづらく、学校の国語文法で用いられている「主語になれるなら名詞」という判定だと名詞としづらいです。しかし、他に適切な品詞がないので名詞と判断しました。なお、「この場面では当然が通用しない」のような文を作れば、主語になっているようにも見えますが、この文では「当然(のやり方)が通用しない」のように省略があると考えることができますから、「当然」という語は主語にならない名詞?と言えるかもしれません。
何を1単語とカウントするかはそんなに簡単ではない
ここから先はさらに趣味のような話に入り込んでいきます。ご興味のある方はお付き合いください。
単語とは、意味をもつ最小の単位?
日本語は、スペースで分かち書きしませんので、英語などと比べてかなり単語の境界が曖昧です。(※1)
ですから、「なにを単語とするのか」をきちんと定義する必要があります。単語は、学校の国文法では「意味や働き(※2)をもつ言葉としては、最小の単位」として紹介されます。(光村図書の教科書より引用)
「ぼくの花」は、意味を持つ最小単位に切り分けると、「ぼく/の/花」になるので、3単語としてカウントするということです。これ以上分けてしまうと、意味が分からなくなりますね。(ぼ/く/の/花)
ここで、「勉強する」という単語を見てみましょう。意味をもつ最小の単位は「勉強」+「する」です。しかし、「勉強する」はこのように2単語に分けるのではなく、サ変動詞「勉強する」1単語として習います。
このように、国語文法では「意味をもつ最小の単位」より大きな塊を単語として扱う例もかなり多いです。
以下のような複合名詞はどうでしょうか。
- 学生証=学生+証?
- 勉強会=勉強+会?
- 田中先生=田中+先生?
- 研究成果=研究+成果?
- 10分休憩=10分+休憩?
- 感染拡大=感染+拡大?
私の感覚によると、1~6の中でも下に行けば行くほど「2単語」っぽくなっているのではないかと思います。(そんなに差はありません。特に4〜6は同じくらいの感覚です)
単語を「意味が分かる最小の単位」と考える(A)のであれば、上記はすべて(または2〜6だけでも)2つに分けた方が好ましいと思われます。
しかし、学校の国語文法では、これらは複合名詞として、1単語としてカウントされていると思います。この理由は、光村図書の教科書には見当たりませんでした。
光村図書の教科書では、複合語の説明に「待ち合わせる」という動詞が用いられています。「待ち合わせる」は、単に「待ち+合わせる」の意味が結合したのとは異なる意味をもつので、複合語と考えるべきと書かれています。これは納得ですが、上記例の4番「研究成果」はどうでしょうか。これは、「研究+成果」の意味が結合しただけの意味と考えてよさそうですから、この理由からは複合語ではなく、2単語とカウントした方がよさそうです。
このあたりも、定義と運用の間にズレがあると感じられる部分であり、試験問題として出すには難しいと思っています。
なお、言語学では、意味をもつ最小の単位は「形態素」と呼ばれており、語(単語)よりも小さい単位を指す概念です。
単語をカウントするその他の方法
「田中先生」のような表現が、複合名詞として1単語とカウントされる理由としては、以下のようなものが考えられます。
(B) 1つの文節内に2つの自立語は来ないというルールにしている。
基本的に文節というものは、
- 自立語のみ
- 自立語1つ+付属語1つ以上
のどちらかで構成で作られています。
「田中先生はご飯を食べた。」を文節に分けて行くとき、「田中ネ/先生はネ」と分けるのは、さすがに違和感があります(田中と先生が別人のように感じられます)。なので、「田中先生は」は一文節と考えるのは妥当でしょう。
ここでもし、「田中先生」が2単語だとすると、1文節内に自立語が2個あることになってしまいます。「こういうのは例外」としても別にいいのですが、学問的にすっきりとした体系を目指す場合は、例外はなるべく作らないほうが好ましいです。なので、「文節につき自立語は1つ」ルールを徹底するために、「田中先生は1単語」とされているのかもしれません。
ちなみに、5番の「10分休憩」や6番の「感染拡大」はいかがでしょうか。「10分ネ/休憩はネ」や、「感染ネ/拡大がネ」という区切り方は、私はあまり違和感なく受け入れられます。ただ、これらもおそらく2文節と考えるべきではないのでしょう。教科書によると、文節の定義・考え方は以下のようになっています。
発音や意味のうえで不自然にならないように、文をできるだけ短く区切ったまとまりを文節という。(定義)
文を文節に区切るためには、区切り目に「ね」「さ」などを入れてみるとよい。(考え方)
おそらく定義に則って、意味のうえで「10分/休憩」や「感染/拡大」という文節の区切り方は不自然と考えるのでしょう。
したがって、「1文節に収まるなら1単語。2文節にまたがるなら2単語」という考え方は、自立語に関してはうまくいくのではないかと思われます(付属語に関しては当てはまりません)。ただ、これは単語の定義「意味をもつ最小の単位」とは整合しなくなってしまっています。
(C) アクセントのまとまりとして1つの場合は1単語とカウントする
「アクセント」というのは、いわゆる高低アクセントのことです。以下、軽くご説明します。
たとえば「田中先生」は、標準語では「た」と「い」のみ低く発音されます。これを「LHHHHHL」と書くことにしてみましょう。しかし、「先生」は単独ですと、「LHHL」のように、「せ」と「い」が低く読まれるはずです。
「田中先生」の「せ」が高く読まれるのは、「田中」と「先生」が結合して1つのまとまりとして発音されるようになったからだ、と考えられるわけです。
下の補足にも書いてありますが、英語では、アクセントをもつひとまとまりを「1単語」と考えることが多いです。
しかし、日本語の場合には、アクセントによる定義は、学校の国語文法とはあまり折り合いがよくありません。
1つ目の問題点は、助詞や助動詞が1語として見なされなくなってしまう点です。助詞や助動詞は、それがくっついている自立語とまとめてひとまとまりのアクセントで読まれます。ですから、アクセントによる定義では、助詞や助動詞は単語としては見なされなくなってしまいます。(実際、言語学では助詞や助動詞は基本的に語とは見なされていません)
2つ目の問題点は、方言差が大きいことです。日本語にはほとんどアクセントというものが存在しないような方言さえあります。そのような方言についても、単語という単位は定義できたほうが望ましいです。
3つ目の問題点は、日本語には無アクセント語が多く、アクセント境界があるのかないのかはっきりしない場合があるということです。
(D)人の脳内で1単語として認識されているものを1単語とカウントする
そんな身も蓋もない、と思われるかもしれませんが、現代言語学が目指しているのはこういうこと(人間の脳内で言語がどのように保存・運用されているのかを理解すること)です。
ですから、理想的には、もっとも正しいと思われる考え方はこの(D)です。
私の感覚によると、上記1〜6は全て(D)の考え方によると正しく1単語とカウントされると思われます。ただ、この考え方は、客観的な計測が難しいという難点があります。反応スピードなどを用いて実験的に計測できなくはないと思われますが、そこまでするほどのことかも怪しいです。
また、この考え方によると、なにを1単語と認識するかは個人差があることになってしまいますので、テストで〇×をつけるのには使いづらいでしょう。たとえば、「10分休憩」は誰もが聞いたことがある言葉だと思いますが、「13分休憩」となるとどうでしょうか。学校で毎日「13分休憩」がある学校では(もしそんな学校があれば)、そこの生徒や先生たちにとっては「13分休憩」は1単語として認識されているでしょう。しかし、そんな微妙な休憩時間聞いたことないよ!という人にとっては、13分休憩は「13分」+「休憩」として認識されるかもしれません。
また、たとえば「飴と鞭」などは、人の脳内では一つの塊として認識されているはずですが、これを学校の国語文法で1単語と考えることはしないでしょう。さらに、「~した方がいいですか」といった表現も、定型句として人の脳内では塊として記憶されているはずですが、これも学校文法ではかなり細かく分解されてしまいます。
(※1) 実は英語でも、スペースでの分かち書きの単位は、語の区切れ目と完全に対応しているわけではありません。たとえば、ice creamは分かち書きされますが、太字にしたiのところにしかアクセントがない(creamはどこにもアクセントがない)ので、ice creamで合わせて1語と見るべきとされています。
(※2) 「働き」という言葉は、「機能」という意味のようです(働きの例:「ものの名前を表す」「動作や様子を表す」「他の単語のあとについて、文節を作る」)。「意味や働き」と書かれていますが、「意味」でも「働き」でも単語のカウントは変わらないように思いますので、本記事では「働き」は無視しています。
品詞がよく分からない語が結構ある
余談ですが、実は、品詞がよく分からない単語もいくつかあります。
たとえば、「アメリカ対日本」の「対」や、「プログラマー兼歌手」の「兼」の品詞は何ともいえません。
なんとなく名詞っぽさは感じますが、主語にはなれません。自立語なのか付属語なのかもよくわかりません。
まとめにかえて
LLM型のAIによる自然言語生成の大成功により、これに近い考え方をもつ認知言語学は追い風を受けているのではないかと思います。
認知言語学的には言語現象のカテゴリーはプロトタイプ的であると言われていて、そもそもあらゆるカテゴリーの境界が曖昧にできています。どこかに明確に線引きをしようという考え方自体が、あまり認知言語学の考え方にそぐわないということです。
なので、名詞と助詞などは、名詞っぽいもの~中間くらいのもの~助詞っぽいものというようにグラデーションをなしていると考えるべき(人間の脳の仕組み上、そうなっていると考えるべき)だと私は思います。
ですから、入試問題でその曖昧な境界線上にいるような微妙な問題を出すのは控えてほしいと思っています。

コメント