2026年度早稲田大学法学部の国語の問題の解答が予備校間でかなり異なるということが話題になっています。
具体的には、現代文(大問3・4)に記号問題が11問ありますが、そのうち4問の解答が河合塾と代ゼミの解答で異なります。11問中4問はさすがに多すぎますよね。試験として機能しているか疑わしく、受験生たちがかわいそうです。
早稲田大学法学部といえば、国語の問題が難しいと定評がありますから、解答作成は各予備校のエース級の講師が行っているはずです。彼らは学生時代から国語が得意だったはずで、そこからさらに何万時間も国語という科目に携わって研鑽を積んできたはずです。それなのにこんなに解答が割れているのは、国語という科目の根深い問題を表しています。
実際に私も解いてみましたが、解答が割れている問題は「選択肢5つのうち3つははっきり間違い、2つはどちらも一部本文の記述と微妙に合わないがどちらを取るか…」といった印象のものがありました。
実は、このようなことは珍しいことではありません。
同じく早稲田大学の2022年度の教育学部の国語では、課題文の筆者である重田教授から直接早稲田大学に対して「解答がおかしい」と抗議がありました。抗議文は以下のとおりです。

貴学の解答例
問一 イ 問二 ハ 問三 ニ 問四 ホ 問五 イ 問六 ホ 問七 ニ 問八 ハ河合塾・代ゼミの解答速報(全く同じ)
ホ ハ ニ ホ イ ホ ニ ハ
駿台予備校の解答例
ホ ハ ハ ニ イ ホ ニ ハ
この論文全体の論旨、およびフーコーの思想を研究してきた上での私が考える解答例
ハ ハ ハ ニ イ ホ ニ ハ (駿台と同じ)
重田先生ご自身も、アカデミアに居続けて明治大学で教授をされている方ですから、よくある「作者が解いてみたら間違えちゃった」とは重みが違います。
なぜこのようなことが起きてしまうのかですが、それは国語の記号問題の作り方と深い関わりがあります。
国語の試験では、本文に解答根拠がなくてはなりません。しかし、本文からそのままの文言で持ってきてしまうと、「内容を理解していなくてもその部分を見つければ良い」ということになってしまいますから、出題者は本文の文言を言い換えて選択肢を作ります。
このとき、全く同じ意味の見え透いた言い換えをしてしまっては、言い換えていないのと同じようなことなので、多少論理構造や意味内容が変わってしまうような言い換えが行われることがよくあります。
これによって、「厳密には△」みたいな選択肢が量産されてしまい、どの範囲のどの程度のズレを許容するかの判断基準が明確ではないため、解答が人によってぶれてしまうということが起きるわけです。
平易な言葉で言えば、「難問を作ろうとして悪問ができてしまう」構造があるということです。私が思う国語における「難問」と「悪問」の定義は以下のとおりです。
- 難問: 高度な論理的思考や語彙力を要するが、解説を聞けば誰もが納得できるもの。
- 悪問・奇問: 正誤の境界線が曖昧で、専門家ですら判断に迷うもの。
現在の難関大入試では、受験生のレベルが十分に高いため、「難問」だけでは差がつかず、結果として「悪問」によって無理やり平均点を押し下げている側面があるということです。これでは「実力による選別」ではなく「運」の要素を強めてしまい、かえって試験の公平性を損なっています。
「無理やり平均点を押し下げている」と上に書きました。補足しておきますと、試験作成界隈の常識として、「受験者の力を測定するための理想的な試験とは、平均点が60点前後で正規分布になっているものである」というものがあります。
「100点の人がたくさんいると、100点の人たちの間で差がつかないから試験として好ましくない」ということです。実際、作成した試験の平均点が高すぎたり低すぎたりすると、偉い人から試験として不適切という評価を受けてしまいます(私が勤務していた大手塾でもありました)。偉い人は問題の中身まで詳しく見ませんから、試験が外形的に平均点60点付近であれば適切なのだろうと考えるわけです。
しかし、当たり前ですが、これは「設問が全て適切に実力が測れる問題になっている」場合に限ります。悪問で100点を回避することには何の有効性もありません。
統計的な得点分布だけで試験の適切性を測ろうとすることには質的な問題があります。
以上のようなことを踏まえ、以下のことを提言しておきます。
提言:平均点を操作するために「解答が割れる不適切な問題」を量産するくらいなら、平均点が80点になっても構わないという姿勢で、誰もが納得できる「良問」を出すべき
国語という科目は、あらゆる勉強をする上での「学びの基礎」という性質がありますから、それを踏まえた試験作成をすべきだと考えます。
まっとうな読解力を持つ受験生が安定して100点取れるような試験となり、平均点が高くなってしまったとしても、それは学びの基礎力を測る試験としては適切と考えます。ほとんどの入試は国語1科目ではないわけですから、他の科目と合わせて受験生の能力を測れば良いと考えます。
もちろん私一人の声で大学が動くわけではないですが、このような考え方を持つ人が少しずつ増えていけば、いずれ入試がより適切なものに変わってくれるのではないかと思っています。
ところで、このような「講師でも解答が割れる」というのは、大学受験の難しい問題に限った話ではありません。
高校受験の国語の問題でも、解答が講師間で割れることはよくあります。信じられないという方は、書店で異なる出版社が出している同じ難関高校の過去問の解答を見比べてみてください。ほとんどの高校は入試問題の解答を公表しませんから、そうした冊子の解答は外部の人が作成したものであり、間違いや解答の相違を含むことはよくあります。
また、実際に私が勤めていた大手塾でも、国語の解答はよく講師によって割れて議論になっていたと聞きます。部分的には、講師個人の資質の問題という側面もありますが(実際、英語科や数学科でも能力的に入試問題が解けない講師もいました)、やはり国語という科目は高校受験においても悪問が一定数存在すると考えて良いと思います。
現状の入試国語が上述のような問題点を孕んでいる以上、重箱の隅を突くような問題にこだわりすぎずにコスパよく勉強して、英語・数学にしっかりと時間をかけた方がいいと考えています。
集団塾は毎週同じ時間割で授業をするシステムになっていますから(塾の都合としてその方が時間割が組みやすいからです)、中1から中3までダラダラと毎週1コマ国語の授業を受け続けるわけですが、それはかなり無駄が多いと考えています。
高校入試の国語は中3の後期の1〜2ヶ月で過去問を解いて調整すれば、十分合格平均点以上の得点力に仕上げられます(良い先生が指導した場合に限ります)。
国語という科目は、入試を出題する側も、それの対策をする側も、構造的な問題の多い科目だと思っています。

コメント